ページタイトル画像

サポーターが行く

第二弾 NPO法人川崎ダルク支援会

施設長 岡崎 重人さんに聞く

有名人が薬物使用で逮捕されるニュースを耳にすると、ほとんどの人は「自分には関係のない世界の話だ」と感じるだろう。だが、実はそのような「私は大丈夫」という考え方こそが薬物依存症へ背中を押してしまうこともある。そう指摘するのは民間の薬物依存症リハビリ施設「川崎ダルク」の岡崎重人施設長だ。自身も「当事者」として10代から薬物の使用を続けてきた岡崎さんに、依存症の啓発サポーターを務める古坂大魔王さんが話を聞いた。

「はじめてダルクに入った時は1ヶ月くらいで出ようと思いました。ここにいる人たちと自分はぜんぜん違う。自分は大麻の使用だったので覚せい剤依存の人ほど悪くない。それでまったく周囲と馴染めずに施設を飛び出しました。今振り返れば、典型的な依存症患者の考え方ですね」
自分はテレビや新聞で騒がれているような「薬物使用者」ではないー。この根拠のない自信が、岡崎さんの依存症を進行させてしまった、と言っても過言ではない。
都内の高校生だった18歳の時に大麻と出会い、20歳でコカインなどにも手を出して定期的に薬物を常習するようになった岡崎さん。きっかけは多くの若者がそうであるように「好奇心」だ。
「大麻を使っている人はみんな楽しそうだなというところから始まりました。ラッパーはみんな大麻吸っているというような憧れもありましたね」
当時の岡崎さんにとって、大麻やコカインは”ファッション”のようなもので、深刻な事態を引きおこす「違法薬物」ではなかったのかもしれない。

だが、そんな認識の甘さが、依存を進行させる。大学に入ってからも薬物がやめられず、やがて岡崎さんは大学も中退してしまう。
「家族にも薬物のことを打ち明けたら、薬物をやめるように強く言われました。ただ、コカインはやめられても、大麻だけはやめられなかった」

どんどん深みへハマっていく中でも、「大麻はそこまで悪いものではない」と自分に言い聞かせていた岡崎さんだが、身体的にも精神的にも薬物に依存していった。
「大麻なのにコカインのようなフラッシュバック(幻覚や幻想)が出るようになっていたんです。使っていない時にも幻聴が聞こえ、被害妄想にも悩まれました。部屋にいても換気扇の隙間から誰かが自分を見ているんじゃないかとか疑って。そこで精神分裂病や統合失調症の薬を飲むようになったら、今度は何もできなくなって1日中動けない。薬物なしでは生活することもできない状態で最悪でした」

ほどなくして岡崎さんは家族から手放された。いっこうに大麻への依存を断ち切ることができない姿を見て、病院へ入院するか、ダルクへ入所するか、いずれにしても本人が問題に向き合えるように家族は岡崎さんを手放したのだ。
病院よりダルクの方がいい。そんな周囲のアドバイスを受けて沖縄ダルクに入所した岡崎さんだったが、すぐに冒頭の言葉のように「ここにいる人は自分と違う」と思うようになって、施設を飛び出してしまう。しかし、東京へ戻った彼に対して家族の行動は彼の意に反するものだった。
「羽田空港から電話をかけると、品川で会おうと言われました。なぜ自分の家に好きな時に帰れないのかとその時は納得できませんでした。これが依存症から回復するために必要なプロセスだということを知ったのは、もっと後のことですから」

その後再び、当時、上野にあった日本ダルクに入所した岡崎さんは、徐々に依存症から回復したという。そのきっかけは何だったのか、と古坂さんが質問をすると、こう述べた。
「僕はそれまでダルクで覚せい剤や市販薬の依存症の方たちとあっても、『自分とは違う』と思っていた。そんな時、ある人から『同じところを探しなさい』とアドバイスを受け、覚せい剤でも市販薬でも依存症の人が陥る心の問題は共通している部分が多いことに気づいた。そこから自分は大麻だから依存症ではないというような感覚がなくなっていった。結局、僕は、”大麻”というモノで自分の依存症を正当化しようとしていただけだったんです」
現在、川崎ダルクの施設長として、薬物依存に悩む当事者や家族のサポートを精力的に行っている岡崎さんのお話を聞いて、古坂さんはあらためて依存症問題には「知る」ということが大切だと感じたとして、このように述べた。
「みんな自分には関係ないと思ってしまうところが依存症の怖いところですね。岡崎さんのような当事者の体験、すべての人が依存症になるんだ、ということをどうやって社会に知ってもらえるかというところが僕たちの仕事だと思います」